自分が中学時代を過ごした1992~1994年といえば、テレビドラマは野島伸司ドラマの絶頂期にあった時期です。当時、自分も野島ドラマを見て脚本家になりたいと思うほど(←単純www)ハマっていました。
野島ドラマといえば、フジテレビでは「101回目のプロポーズ」(1991年)、「愛という名のもとに」(1992年)、「ひとつ屋根の下」(1993年)、TBSでは「高校教師」(1993年)、「人間・失格」(1994年)、「未成年」(1995年)……。
このあたりは、自分と同じ世代であればパッと思い出せると思いますが、今回記事にする「この世の果て」(1994年フジテレビ)は結構影が薄い印象があります。
そのためかどうか不明ですが、放送後21年経った今でもDVD化が実現しておらず、それがもどかしくて仕方ない。高校教師やひとつ屋根の下も、負けず劣らず完成度の高い名作とは思いますが、この「この世の果て」の完成度も非常に高いです。本来であればもう一度動画を見て振り返りたいところですが、小説版で我慢。
〇極限の愛を完膚なきまでに一極集中的に描く
90年代といえば、バブルが崩壊して日本に閉塞感が生まれ始めてきた頃ですが、野島伸司氏はそれをうまく救い取り、生死と貧富の座標上に、視聴者をのめり込ませるような起伏の激しくてかつ完成度の高いストーリーを書いていた感じがします。
特にこのドラマはその傾向が強い感じがして、それでいて星の王子さまの世界観をうまく導入して重厚かつ詩的に導入し、波乱万丈なストーリーを畳み込んでいきます。それでいて展開の速さを感じさせず、自然と視聴者を溶け込ませている。
すごい、すごすぎる。今のフラットな勧善懲悪型のドラマが好まれる現代で、この徹底的に料理し尽くしたドラマが受け入れられるかどうかはわかりませんが、この当時のドラマは本当に妥協なく作っている感じがします。
この世の果ては、絶望的な状況に置かれた男女の極限の愛を一極集中的に描いています。それでいて重苦しくない。そして重厚なオーケストラを聴いているような高級感すら漂わせる。
感動とか共感という言葉を使うのが、どうしても薄っぺらく感じて、どう表現したらいいかわからないですが、このドラマの世界観が視聴者をしばらく余韻で動けなくしていたのはたしかです。
また、時代背景がもう20年以上前というのもありますが、野島ドラマはどこか古めかしさを感じる箇所が散見されるのですが、このドラマはそういうのは全然ない気がします。そういう意味でも完成度は野島ドラマの中でもトップクラスだと思います。
〇印象に残ったセリフ
この世の果てはフジテレビで放映されたドラマとしては珍しく、社会派ドラマのカテゴリーに入るため、どちらかというと高校教師のようなTBSの野島ドラマっぽい世界観です。
そのためか、TBSの野島ドラマみたく、放送の始まりと終わりに主人公の詩的なナレーションが挿入されています。これがまた重厚で詩的で、それでいて純粋。物語をほどよく盛り上げ、視聴者に余韻を与えてくれた感じがしました。
このナレーションを含め、印象に残るセリフの多い作品です。下のセリフを見て興味を持った方は一読を勧めます。映像ではなく文字になっている分、1994年という時代背景の古さが気にならず、一気に読んでいけると思います。
※DVDがないため、小説版から引用しています。
・きっと何事もなく世界は穏やかに動いていたであろう。僕たちふたりだけを置き去りにして
・私はね、自分は安全な船の上にいて、浮輪を投げるような人間が嫌い
・幸せってなんなのよ。そんなものはありやしないよ。この世にあるのは金のあるやつとないやつ、罪とその報いだけ
・いつか別れが来たとしても、暗闇という優しいクレパスでいつでも消せるように、僕達は愛してるとは言わなかった
・過去を捨てるこの痛みを、愛しいまりあ、君に未来をあげられる喜びが消してくれる
・たとえ世界中が僕を見下しても、どうか今の僕を笑わないで
・愛とか恋とか、そんな言葉口にする奴を観ると、頭がガンガン痛むのよ。だから引き剥がしてやるの。二度と口にできないように絶望させちゃったりするの
・早く、俺の指を返してくれ。返して。返して。返して。おまえが俺の人生を狂わせたんだ。
・まりあ、愚かな僕は、君との出会いからすべてを悔やみ始めていた。
・まりあ、今の僕は魂の脱け殻さ、皮肉なことにただ君を傷つけ、苦しめる時だけに自分の存在を感じるんだ
・生まれて初めて、必要だって言われたの。シロに。忘れない。嬉しかった。
・一度でいい。死ぬと分かっていて尚、溺れる人を助ける人間が見てみたい。
・誰よりも苦しんで、やっと幸せを見つけたんだね
・まりあ、僕は君を失うことで君を取り戻したんだ。僕は過去のすべてを失い、これからのすべてを君に差し出すだろう。