別記事で「批判記事を書かない方がいい」と書いてきましたが、いろんなブログを見ていると、批判記事ばかり書いている人も多く見ます。
また、普段は自分の思っていること、好きなことを素直に書いているのに、どこか感情的になったのか、いきなりやたらと誰かを集中砲火するような記事を書く人もいます。
あまりにたくさんあるため、「たまにはこんな記事を書いてもいいかな」と思う人もいると思います。しかし、自分はだめだと思います。誰かが不快になりますから。今回、そんなブログを参考にしてはいけない理由について、思うところを書こうと思います。
■自分の首を絞める
とはいっても、批判記事が全部だめかといえば、そんなことはないと思います。犯罪など社会的正義に反することを批判するのは、まだ良いと思います。
でも、批判記事を書いている人の多くは、そうではありません。違う価値観の人を思いっきりこき下ろすんです。
「違いは違いであって間違いでない」という言葉を聞いたことないですか?でも、批判記事を書く人の多くは、これができていない。違いは間違いとしてしまうんです。
違う価値観の受容とか承認とか、日本人はすごい苦手ですよね。で、ブロガーは日本人がすごい苦手とすることに対して対抗意識があると思うんですが、批判記事を書く人は、思いっきり日本人の前時代的な感性のスパイラルにはまってしまっているんです。
これはブログ執筆に限らず、日常生活のコミュニケーションでは、より大きな弊害になります。たぶん孤立して相談相手とかいなくなりますよね。
これがブログでも同じことが発生します。特定の誰かをアホ、バカ、とこき下ろす人のセミナーとか講演とか行きたいと思いますか?
ハンドルネームならともかく、本名で活動していて、しかもフリーランスで、批判記事ばかりのブログを書いている人が多いのが驚きですが、なんか自分の首を絞めているような気がします。
みんな、そんな批判されそう、怒られそうな場所に行きたくないと思うんですよね。むしろ、自分の本心を包み隠さず言えそうな安心安全な場を求めているのではないかと思います。
■言いたいことが言えなくなる
批判的な記事って、一見すると、言いたいことを自由奔放にしゃべっている感じするじゃないですか。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという感じで。
たしかに、好き嫌いの激しいことは悪いこととは思いません。むしろ、嫌いなものははっきりしないと、我慢する自分を作り出してしまい、ストレスが溜まってしまいます。これは不幸です。
でも、考えが変わったりしたらどうなんでしょう?徹底的にこき下ろした人でも、良いところを見つけた場合はどうするんでしょう?
案外価値観は変わります。お金、結婚、恋愛、仕事に人間関係、すべてにおいて変化が起きます。というより、受容できる部分が増えると言って良いのかな。
でも、批判的な記事を書いてしまうと、ずっとそのキャラを保っていかなくてはいけなくなります。もう考えが変わっているのに。本当はその人や物を受け入れる余地ができているのに。
結果的に言いたいことが言えなくなってしまいます。また、違う価値観を受容できないということは、自分も相手に対して違う価値観を発することを恐れているということになるので、その時点で言いたいことが言えなくなっています。
■修復不可能な人間関係ができる
書評やグルメ記事で、批判的な記事を書いてしまう人がいます。素直な感想といえば、そうなんですが、案外書評は著者の方見ているし、飲食店でも経営者の方も感想見ています。
実際に、書評とかTwitterでシェアしてみてください。かなりの高確率で著者から反応があります。リツイートしてもらったり、お礼のコメント頂いたり、facebookでシェアしてもらったり。
逆に批判的な記事を書いてしまったらどうでしょう。「もうちょっとこうすれば良かった」とか「この点を書いて欲しかった」とかならまだ良いです。
でも、ばっさりと感情的に、例えば書評なら「つまらん」「くだらん」、グルメ記事なら「まずい」「二度と来るか」といったことです。確実に人間関係にひびが入ります。まったく自分にとってメリットないです。
本がつまらなかったら、面白かったとこだけ感想を書くか、書評書くことを諦めたほうがいい。グルメ記事なら、まずかったら書かなければいい。
相手にとって誹謗中傷になるようなこと書いても、良いことは何もありません。